子どもの絵にビギナーズマインドの実践を感じる
禅マインド ビギナーズ・マインド (サンガ新書) 鈴木俊隆 (著)を読んだ。
ジョブズも愛読したそうだ。
「Beginner's Mind」。日本語だと「初心」。
個人的には、「初心」よりも具体的で理解しやすい。
「Beginner's Mind」。直訳すると「初心者の心」。
スポーツでも勉強でも、完全に初心者の時って、必死なんだよね。
自分が向いてるとか向いてないとか余計なこと考えず、とにかくやってみる。
要は、無限の可能性があるわけだ。
下手に経験すると、余計なこと考えてしまって、思いきれないことがあると思う。
一生懸命やればできたかもしれないのに、言い訳をつけて逃げてしまったり、変なプライドで、恥かきたくなくて、人に助けを求められなかったり、とか。
余計なこと考えず物事に当たる心。
筆者は、ビギナーズマインドをそのように理解している。
あらゆる場合に当てはまることじゃないと思うけど、ビギナーズマインドで物事に当たること、大事のことだと思うのだ。
でも、なかなか実践できない。
実践されてる一例が、子供の絵だと思う。
筆者は、子どもの絵が、すごく好きだ。
芸術は全然わからないけど、子どもの絵って、とにかく自由なんだよね。
自分の感じたことを、そのまま表現してるというか、すごいパッションを感じる。
書きたいんだな、書きたかったんだな、って。
変にかっこつけてない、感じたことを、まさに今ここでぶつけるというか。
対して、例えばインスタで、軽い気持ちで作った写真が結構いいなと思って、かっこつけて色々用意して取り直すと、いまいちになったりするんだよね。
仕事でも、評価とか考えて、かっこつけて仕事するより、無我夢中で当たったときの方が、いい仕事ができたという経験、ないだろうか?
変な先入観なしに考えた方が、 核心に迫るアイデアが浮かんだこと、ないだろうか?
いわゆる、アシタカが言う、曇りなき眼、か。
子どもの絵のように、自由に、情熱的に、まっすぐに。
自分の仕事も、そうあれたら。
そのように思う。
ブッダ「子どもが生まれた。束縛が生じた。」
ラーフラが生まれた。束縛が生じた。
身も蓋もない(笑)。ここまで言うか(笑)。
というのが、最初にこの言葉に触れた時の、率直な感想だ。
でも、一理あると思うのだ。
仏教には、一切皆苦という言葉がある。
すべてのものは、苦しみである、すべてのものは、苦しみのもとである、と。
苦しみとは、原始仏教では、"思い通りにならないこと"を言っているそうだ。
私には妻がいる。そして、妻を愛している。
でも、妻は私ではない。
ある日突然、私の前からいなくなってしまうかもしれない。
それは、病気なり、事故なり、運命によってどうにもならない場合もあるし、心変わりなどの場合もあり得る。
いずれにせよ、自分のことすら思い通りにならないのが人間の現実なのに、自分ではない妻のことを、どうすることもできないのは、明らかだろう。
愛する人出会うことは、その人といつかは別れなければならない苦しみ、すなわち、いわゆる四苦八苦の一つ、
が生まれるわけだ。
また、俗な話だが、結婚したり、子どもが生まれたりすると、責任が生じる。
もう自分一人の身ではない。
会社の偉い人やお客さんと喧嘩して、退職せざるを得なくなる、病気や怪我で働けなくなる、など、自分一人であれば、それも運命かな、と割り切れるものも、それで済まなくなる。
逮捕され、報道などもあり得る。逮捕なんて(笑)と思うかもしれないが、痴漢の冤罪などもあるし、運が悪ければ全然あり得る話だ。100%、完全に清らかな人間などいない。
セクハラが問題になる場合、している側はそんなに悪いことしている認識はないのではないか?それと同様、自分が普通と思ってやったことが、誰がどう感じるかなどわからない。解釈や訴え方によっては、犯罪になる可能性もあるだろう。
結婚したての頃、そんなことを考えていたら、非常に苦しくなったのを覚えている。
「一切の形成されたものは苦しみである」と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
家族まで苦しみと考えると、人生の意味がわからなくなるかもしれない。
しかし、苦しみとは"思い通りにならないこと"と理解すれば、十分に腑に落ちる。
どんなに愛しくても、自分ではないのだ。自分の人生すら思い通りにならないのに、思い通りにになるわけがないのだ。
そう考えれば、無慈悲に襲ってくる運命に対して、少しは落ち着いて対処できるかもしれない。
アンガーマネジメントを実践しても、痛みを感じなくなるわけではない
アンガーマネジメントの実践を諦めてしまう人は、ここを勘違いしていないだろうか?
私は勘違いしていた。
アンガーマネジメントを実践すれば、痛みが消え去るのだと。
しかし、怒りのコントロールを極めた人でも、やはり痛いのではないだろうか。
セネカも言っている。
心が最初に受ける打撃を、理性によって逃れることはできない
賢人も、やっぱり最初の一撃は痛いのだ。
最初の一撃は痛いけれども、理性でコントロールして、怒らないようにしましょうよ、というのが、アンガーマネジメントではないだろうか。
怒りに対する最良の対処法は、遅延である。判断するために求め給え。怒りには、はじめに激しい突進があるが、待っているうちにやむ。
痛いけど、痛みは収まるから、ちょっと落ち着けと。
アンガーマネジメントを実践しても、痛みを感じなくなるわけではない。
アンガーマネジメントの実践を説くには、まずこのことを明示するべきではないだろうか。
結局痛いなら、アンガーマネジメントする意味がないと思うかもしれない。
だが、メリットはあると思う。
セネカ曰く、
復讐には膨大な時間がかかる。我々は皆、傷つけられている時間より長く怒っている
そうなのだ。
怒りをマネージメントしないと、最初の一撃だけで済まないのだ。
苦しみが続くのだ。
それに、痛みを感じなくなる、などと胡散臭いことを言われるより、よほど信用できる。
怒りの感情が生まれるメカニズムは知らないけど、傷つくことを言われたら痛みを感じるのは、生物学的にも当然の反応ではないか?
それなのに、「うちのセミナーを受ければ」「私の本を読めば」痛みを感じなくなるなどと言われたら、胡散臭さ極まりない。
セネカの「怒りについて」からは、聞こえのいいことを言って洗脳するのではなく、人間を、人間の理性を信じる、熱い情熱を感じられる。
さすがは2000年間読まれている著作である。
このブログについて
このブログでは、哲学素人が哲学書を読んで、
- 専門家ではない普通の人として、考えたこと、感じたことを整理する
- 自分の身の回りや、世間の出来事で、哲学が実践されている場面を探す
などを通じて、哲学、特に哲学の実践について考察したい。
哲学の実践は難しい。本にも、実践するのは難しいとよく書かれている。
哲学の実践が難しいのは、哲学者にも当てはまる。
哲学者が、「あなた、自分で言ってること、できてないよね?」という指摘に対し、「私は賢人ではない、賢人を目指している、だから研究しているのだ」みたいに開き直ってたりする。
ちょっと前に話題になった、嫌われる勇気(アドラー心理学)でも、アドラー心理学の実践には、生きてきた年数の半分の時間がかかると言われていたと思う。(アドラー心理学を哲学と定義していいのかは、知らない。)
でも、日常生活でうまくいった場面を後から振り返ると、哲学の一部を実践していたのでは?ということが、たまにある。また、社会的に成功してる人とか見てると、哲学の一部を実践してるように見えることが多々ある。
そのような事例を発見したり、実生活に哲学を無理やり当てはめてみたりして、哲学の実践を考察したい。
私は、哲学を専攻していたわけでもなく、本を読んで考えるだけの、完全な素人である。難しい専門用語もわからない。
が、哲学は、ふつうの人が幸せになるためにあり、難しい概念は必ずしも必要ないと信じたい。また、難しい概念を知らないほうが、ビギナーズマインド、曇りなき眼で見たり感じたりできることも、あるのではないか?
ということで、自分の考えの整理のため、また、哲学書を読む時間のない人の参考になることを願って、書いてみることにした。