哲学の実践を無理にでも考察するブログ

哲学素人が、読んだ哲学書について、実践を考察します。

ブッダ「子どもが生まれた。束縛が生じた。」

ブッダも結婚していて、ラーフラという息子が生まれている。

ラーフラが生まれた時、ブッダはこう言ったそうだ。

ラーフラが生まれた。束縛が生じた。

身も蓋もない(笑)。ここまで言うか(笑)。

というのが、最初にこの言葉に触れた時の、率直な感想だ。

 

でも、一理あると思うのだ。

 

仏教には、一切皆苦という言葉がある。

すべてのものは、苦しみである、すべてのものは、苦しみのもとである、と。

苦しみとは、原始仏教では、"思い通りにならないこと"を言っているそうだ。

 

私には妻がいる。そして、妻を愛している。

 

でも、妻は私ではない。

 

ある日突然、私の前からいなくなってしまうかもしれない。

それは、病気なり、事故なり、運命によってどうにもならない場合もあるし、心変わりなどの場合もあり得る。

いずれにせよ、自分のことすら思い通りにならないのが人間の現実なのに、自分ではない妻のことを、どうすることもできないのは、明らかだろう。

 

愛する人出会うことは、その人といつかは別れなければならない苦しみ、すなわち、いわゆる四苦八苦の一つ、

愛別離苦

が生まれるわけだ。

 

また、俗な話だが、結婚したり、子どもが生まれたりすると、責任が生じる。

 

もう自分一人の身ではない。

会社の偉い人やお客さんと喧嘩して、退職せざるを得なくなる、病気や怪我で働けなくなる、など、自分一人であれば、それも運命かな、と割り切れるものも、それで済まなくなる。

逮捕され、報道などもあり得る。逮捕なんて(笑)と思うかもしれないが、痴漢の冤罪などもあるし、運が悪ければ全然あり得る話だ。100%、完全に清らかな人間などいない。

セクハラが問題になる場合、している側はそんなに悪いことしている認識はないのではないか?それと同様、自分が普通と思ってやったことが、誰がどう感じるかなどわからない。解釈や訴え方によっては、犯罪になる可能性もあるだろう。

 

結婚したての頃、そんなことを考えていたら、非常に苦しくなったのを覚えている。 

 

「一切の形成されたものは苦しみである」と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。

 

家族まで苦しみと考えると、人生の意味がわからなくなるかもしれない。

しかし、苦しみとは"思い通りにならないこと"と理解すれば、十分に腑に落ちる。

 

どんなに愛しくても、自分ではないのだ。自分の人生すら思い通りにならないのに、思い通りにになるわけがないのだ。

 

そう考えれば、無慈悲に襲ってくる運命に対して、少しは落ち着いて対処できるかもしれない。